桃始笑 春の期間限定動画(3/16朝まで:終了しました)

こんばんはーみりん屋です。

暖かくなりそうでなかなか暖かくならないですね。
日中の日差しはどことなく、春を感じるようになってきましたが。

 _人人人人人人人人人人_
 > 突然の時候の挨拶 <
  ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄  

いえ、理由が無いわけでもなく。
今年の二十四節気は 3/6 から 3/20 までが啓蟄(けいちつ)、
そのうち 3/11 から 3/15 までが、七十二候の桃始笑(ももはじめてさく)です。

ちょうど先日のCDで、同じタイトルの曲を作ったので、
桃始笑の間に公開しようかなと思い立ち、動画を作りました。



 タイトル:桃始笑
 原曲:日本中の不思議を集めて
    ("伊弉諾物質 ~ Neo-traditionalism of Japan." 収録)
 作曲:ZUN (上海アリス幻樂団)
 編曲、作詞、歌唱:みりん屋 (マンダライン)

秘封倶楽部の歌です。
秘封CDにはどこか、いずれ終わるジュブナイルというか、
特にメリーは、喪失や別離を予感させる雰囲気を感じさせますが、
例え最後がそうであってもやはり、蓮子が何度でもメリーの手を取って、
2人でハッピーエンドに向かって倶楽部活動してほしいなぁという、
そんなことを思ったり思わなかったりする今日このごろです。

ただ、先日頒布したばかりの "JCT 1.0" に収録した曲ですので、
すみませんが今年は桃始笑(暦の方)の間だけの、期間限定とさせてください。

明けて次の七十二候、菜虫化蝶の始まる3/16の朝まで公開しております。
春の週末に、ちらとご視聴頂ければ幸いです。


ではそんな感じでー
以下はまったく関係のない余談というかメモです。






「桃始笑」について、上では断りなくルビをふりましたが、
読みは「ももはじめてさく」なんでしょうか。「ももはじめてわらう」ではなく?
(ツイッターなどで検索すると、「-わらう」と読んでいる方も居て不安に駆られます)

そもそも七十二候とは何者なのか。
少し調べてみました。


< 日本の暦について >

 まずは二十四節気、七十二候の前提となる暦です。

 暦の技術は大陸から日本に輸入され、遅くとも604年(推古12年)には作成を開始、律令制の制定後には行政機関である陰陽寮により管理されました。ここで用いられた暦は、1ヶ月の長さを月の満ち欠けの周期によって定め、弥生や葉月といた各月と季節とのズレを適宜修正する太陰太陽暦でした。これは月の満ち欠け周期「のみ」を基準とする純粋な太陰暦とも、現在用いられる太陽暦とも異なり、29日間の月(小の月)と30日間の月(大の月)が不規則に並ぶ、2~3年に一度、13ヶ月目の月(閏月 うるうづき)がある、等の特徴が挙げられます。
 数度の改暦(かいれき 暦を新しくすること)を経て、平安期の862年(貞観4年)には唐で作成された「宣明暦」が輸入され、以降はこの宣明暦が日本のスタンダードとなります。下の画像は、1618年(元和4年)に出版された「古暦」という文献の一部です。この文献には1534年(天文3年)から1619年(元和5年)までの暦が大まかに記されており、画像は1537年(天文6年)の暦を示したページです。平安からかなり時代が下りますが、中世から近世に至ってもなお、宣明暦は現役でした。


国立国会図書館デジタルコレクション
"古暦" コマ番号5より抜粋 http://goo.gl/ciddhC

(ここまで 国立国会図書館 "日本の暦" に拠る http://goo.gl/kvhVwW


 宣明暦はその後、江戸時代まで使用され続けましたが、実際には日食や月食の予報が外れることがあり、国内の天文技術の向上に伴って、改暦の機運が生じました。そこで当時の天文学や暦に通じていた渋川春海(1639-1715)は、観測の成果や中国と日本との経度差などを踏まえた「大和暦」を作成しました。大陸(明)の暦である「大統暦」との比較試験など悶着ののち、最終的には渋川春海の暦が採用され、当時の元号から「貞享暦(じょうきょうれき)」と名付けられました。1685年(貞享2年)のこの出来事は、貞享の改暦と呼ばれます。
 下の画像は、1746年(延享3年)の暦を記した文献の一部で、貞享暦に基づいて2月の最後と3月の暦が書かれています。1つ前の暦よりも幾分か情報量が増えましたね。


国立国会図書館デジタルコレクション
"延享三年ひのえとらの貞享歴" コマ番号7より抜粋 http://goo.gl/5bgMzV

(ここまで 国立科学博物館 "渋川春海" に拠る http://goo.gl/rrzmSl


 江戸時代にはその後、宝暦、寛政、天保と3回の改暦が行われましたが、施行された暦はすべて太陰暦でした。江戸時代の暦は幕府の天文方が計算を行い、それを各地の出版社が出版していました。下の画像は1862年(文久2年)1月の暦で、幕末にあたるこの時代は天保暦が採用されています。


国立国会図書館デジタルコレクション
"南都暦. [3]" コマ番号2より抜粋 http://goo.gl/nUx0IP

 時は流れて1868年の明治維新。明治政府は、1872年(明治5年)に太陽暦の1つであるグレゴリオ暦への改暦を発表、採用しました。太陽暦は1ヶ月の長さを、地球が太陽の周りを公転する周期によって決める暦で、これが現在まで使われている暦となります。

(ここまで 国立国会図書館 "日本の暦" に拠る http://goo.gl/kvhVwW


 維新後の暦は順を追って整備され、1880年(明治13年)までには正式な暦である「本暦」と、日常用として本暦から必要な内容だけを抜粋した簡易版である「略本暦」の2本体制となりました。編纂者と発行者は年により変化がみられ、前者は大学暦局、文部省天文局、内務省、帝国大学など、後者は神宮司庁、神部署、神宮神部署などが担当しました。明治政府に属する公的機関が編纂し、神宮司庁が発行した、とまとめることができるでしょう。
 下の画像は1898年(明治31年)の略本暦で、前年の11月に神宮司庁から発行されました。全体のレイアウトはおおよそ、維新前の暦のものを踏襲していますが、太陰太陽暦から太陽暦への改暦を踏まえてのことでしょうか、「旧十二月せつ」「旧十二月中」との記載のほか(「せつ」と「中」については後述)、月の満ち欠け、昼と夜の時間、神道の重要な祭祀の日程などが追加されています。


近代デジタルライブラリー
"明治三十一年略本暦" コマ番号2より抜粋 http://goo.gl/80jJXj

(ここまで 国立天文台 "暦の歴史" に拠る http://goo.gl/sTXkEx


 以上、日本の暦について簡単に整理すると、下表のようになります。

西暦和暦暦の名前暦の種類編纂者発行者
862年
-
1685年
貞観4年
-
貞享2年
宣明暦太陰太陽暦陰陽寮陰陽寮
(律令制下)
1685年
-
1755年
貞享2年
-
宝暦5年
貞観暦太陰太陽暦幕府天文方民間
1755年
-
1798年
宝暦5年
-
寛政10年
宝暦暦太陰太陽暦幕府天文方民間
1798年
-
1844年
寛政10年
-
弘化元年
寛政暦太陰太陽暦幕府天文方民間
1844年
-
1872年
弘化元年
-
明治5年
天保暦太陰太陽暦幕府天文方民間
1873年
-
明治6年
-
グレゴリオ暦太陽暦明治政府神宮司庁



< 二十四節気について >

 二十四節気(にじゅうしせっき)は、1年を24分割した季節の目安です。立春、冬至、大寒などは現在でもお馴染みですね。より正確に言えば、地球が太陽の回りを公転する軌道を、冬至を起点に24分割してそれぞれのポイントに名前を付け、地球がそのポイントを通過する時間が、清明、穀雨、立夏などの二十四節気、ということになります。冬至を1としたとき、3(大寒), 5(雨水), 7(春分)...というように奇数番号が与えられるグループを「中」と呼び、また2(小寒), 4(立春), 6(啓蟄)...というように偶数番号が与えられるグループを「節」と呼びます。
 日本(に限りませんが)の四季は、自転軸の傾きのために、地球が公転軌道上のどの位置に居るかによって太陽光の当たり具合が変化することでもたらされます。つまり季節は公転軌道上における地球の位置により決まり、二十四節気はその位置を示す目安といえます。地球の公転周期を基準に作成する暦は太陽暦であるので、二十四節気は太陽暦の要素であると考えられます。
 すると、明治維新前の日本の暦は陰暦であるから二十四節気とは関係がなかったのじゃないか、と思われますが、どうやらそうではないようです。
 1537年(天文6年)の暦をもう一度見てみましょう。「正」「二」「三」は月の番号、その下の「大」「小」は、前述の小の月(29日間)と大の月(30日間)を示すものでしょうか。そして各月の最下段、十干十二支で「中」と「節」の日付けが記載されています。



 1746年(延享3年)の暦では、「春分」の文字が、



1862年(文久2年)の暦にも、「立春」「雨水」の文字が見えますね。



 明治以前の暦は太陰太陽暦であったので、1日や1ヶ月の長さの決定には月の公転周期を用いていましたが、一方で季節と暦を整合させる”太陽暦的な"調整が定期的に発生しました。この際に、すなわち暦の上での季節と実際の季節を整合させる際に、二十四節気が用いられました。これは宣明歴でも、貞観暦でも、宝暦暦でも、太陰太陽暦であればすべての暦に共通です。つまり太陰太陽暦が輸入された時点で、日本の暦と二十四節気は分かちがたく結びついていたものと考えられます。
 余談ですが二十四節気を補う季節の目安に雑節(ざっせつ)があり、土用、節分、お彼岸に八十八夜などが例として挙げられます。たとえば土用は二十四節気である立春、立夏、立秋、立冬それぞれに先立つ18日間、節分はそれぞれの土用の最終日で立春、立夏などの前日、お彼岸は春分と秋分の前後3日+当日の7日間、夏も近づく八十八夜は立春から数えて88日目を指しました。

(ここまで 国立天文台 "二十四節気とは?" に拠る http://goo.gl/TQdrK6



< 七十二候について >

 七十二候(しちじゅうにこう)は、二十四節気をさらに細分化した季節の目安です。1つの節気をさらに3つに区分して1年を72等分するため、候と候の間はおよそ5日間となります。
 国立天文台の解説によれば(*1)、七十二候は二十四節気と同じく中国から伝来したもので、貞観暦を作成した渋川春海はこれを日本の気候に合わせて改め、新制七十二候として発表、その後宝暦暦の時代にも一部が修正された、とされています。また、国立天文台図書室は(*2)、七十二候は「半夏生(はんげしょう これ以降は田植えをしてはいけないとされる)」のように農作において重要な候以外は、基本的には記載されなかった、としています。七十二候について、「日本に伝わってから気候の違いや日本に生息しない動植物などの名前を入れ替えるなど、時代や編者により多くの版があり、どれが正しいとは言えないのが現状」であるとの見解も示されており(*3)、日本においては二十四節気ほど腰の据わったものではなかったようです。

 貞観暦の採用が1685年(貞享2年)であるので、渋川春海が新制七十二候を発表したのも、これに近しい時代であったと考えられます。改暦からおよそ30年後、1712年(正徳2年)に成立した一大百科事典である 『和漢三才図会』 をみると、第五巻の冒頭で二十四節気七十二候について、図入りで解説されています。

1712_sansai.jpg
国立国会図書館デジタルコレクション
"和漢三才図会. 巻之1-20" コマ番号53より抜粋し書込み http://goo.gl/j6emYg

 印を付けたところに啓蟄の七十二候が見えますが、暦の順に「桃始華ク」「倉庚鳴」「鷹化為鳩」とあり、これは中国式の七十二候です。1712年(正徳2年)の時点では、渋川式、新制七十二候はまだまだマイナーだったのかもしれません。

 さらに時代は下り、江戸中期から後期にかけて活躍した神道家の春木煥光(1767-?)が、七十二候について解説しています。1821年(文政4年)に成立した(*4) 『七十二候鳥獣虫魚草木略解』 の文章は次の通りです。

"啓蟄第一候 和には蟄虫啓戸と云ひ漢には桃始華と云 
/ 桃 和名もも華は花さくと訓す 
/ 啓蟄第二候 和には桃始笑と云ひ漢には倉庚鳴と云"
haruki.jpg
国立国会図書館デジタルコレクション
"七十二候鳥獣虫魚草木略解" コマ番号6より抜粋 http://goo.gl/hVme3B


 この頃には中国式の七十二候と新制七十二候が並列で解説されており、渋川式は少なくともある程度、人口に膾炙していたものと思われます。また中国式の「華」に対して「花さく」という読みが与えられていることも確認できます。読みに関しては、「笑」と「咲」の漢字は中国では元々同じ文字(異字体)であり、意味上の区別がなかったが、日本に輸入されてから「わらう」と「さく」という、別々の字として定着した、という指摘がなされています(*5)
 なお、江戸期に発行された雑書(ざっしょ 暦や占い、人相や開運、神仏などについて書かれた、雑誌のような書物)には、中国式の七十二候のみを記し、「さく」のルビを付したものも見受けられます。ただ、これらは維新後に翻刻、編さんさされたものなので、原典がいつ刊行されたものなのか判然としません。絵はなんだかかわいいですね。

zassyo.jpg
近代デジタルライブラリー
"永代大雑書大成" コマ番号16より抜粋 http://goo.gl/c8i0w8


 ところで、これまで見てきた暦には二十四節気の記載はあれど、七十二候の姿は見られませんでした。ところが維新後、1874年(明治7年)から1983年(明治16年)までの略本暦には、なぜか七十二候が掲載されていたようです(*1)。掲載期間の初年、1874年(明治7年)の暦を見てみましょう。漢字は「桃始笑」の新制七十二候、読みのルビは「サク」とされており、遅くともこの時期までには現在と同じ漢字、同じ読みの七十二候が、スタンダードとして定着していたものと考えられます。


近代デジタルライブラリー
"略本暦. 明治7年" コマ番号8より抜粋 http://goo.gl/q7GIAB


 *1: 国立天文台 "七十二候" http://goo.gl/0nYtgt
 *2: 国立天文台図書館 "貴重資料展示室" http://goo.gl/cQjPi9
 *3: こよみのページ "七十二候の日付計算" http://goo.gl/CsmRPl
 *4: 真柳(2008): 日本の医学・博物著述年表: 2008 茨城大学人文学部紀要
 *5: 「咲」と「笑」 http://goo.gl/ZGypbH


以上、見てきた限りで七十二候と桃始笑について総括すると、およそ以下のような感じかと思います。

・日本は古代から明治維新まで暦に太陰太陽暦を採用しており、二十四節気と七十二候は太陰太陽暦の技術とともに、季節を表す目安として大陸から輸入された。
・二十四節気、七十二候は太陰太陽暦の季節の調整に用いたもので、グレゴリオ暦の採用後は不要となったが、文化や生活の中には残った。
・二十四節気は遅くとも中世には定着し、明治以前の暦にも多く記載されたが、七十二候は一部を除いて、暦にはあまり記載されなかった。
・1685年(貞享2年)になされた貞享の改暦の頃に、渋川春海が日本の風土に合うように七十二候を改め、新制七十二候とした。
・新制七十二候の定着にはいくらかの時間を要したとみられるが、遅くとも1874年(明治7年)には標準となった。
・中国式の『桃始華』は「ももはじめて花さく」、新制七十二候の『桃始笑』は「ももはじめてさく」


また何か思い付いたら、追記しようかな

※Webで手に入る資料しか見ていないので、図書館などできちんと調べると、また違う結果になるかもしれません。あしからず。
・web上の制作活動 | CM(0) | TB(0) 2015.03.14(Sat) 21:27
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